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矢谷彦七(19歳の頃)
昭和元年創業本店
38歳の若き実業家が開業した中国料理店。
銀座アスターが誕生したのは昭和元年(1926年)12月のこと。創業者の名は、矢谷彦七。当時まだ38歳という若さでした。20歳の頃から海運会社の社員としてハワイ・サンフランシスコ航路の貨物船の事務長(チーフパーサー)職を務めていた彼は、その後船を降り、30歳にして有限会社矢谷バターを創業。わずか数年で、日本のバター販売シェアの6割を占めるほどの実績を生み出していました。ですが、大正12年(1923年)の関東大震災により工場が壊滅。再起を図る彼が志したのが、中国料理のレストラン経営だったのです。脳裏にあったのは、20代の頃に親しんだ、サンフランシスコのチャイニーズレストランでした。横浜南京街(現:中華街)でスカウトした料理人による本格的な広東料理を出す、ハイカラなアメリカ風のレストラン…。その斬新なコンセプトは流行の発信地・銀座の街にマッチし、店舗は盛況を極めました。店名の銀座アスターは、上海にあったアスター・ハウス・ホテルにちなんだものでした。
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当時の工場内の様子
レストラン事業からデリカ事業へと領域を拡大。
開業直後から人気を集めた銀座アスターでしたが、彦七は決して満足することなく、継続的にブラッシュアップを重ねていきました。彼自身の回想によると、ある中国人から「もっと中国ムードを出した方がいい」という助言を受け、書物を調べながら徐々に変えていったところ、ほどなく「銀座アスターは日本人ではなく中国人が経営しているのだ」と間違われるまでになりました。戦中~戦後には物資不足に悩まされた時期もありましたが、昭和20年代の後半には、デパートののれん街ブームを受け新たな販路を開拓。食料品売場にデリカショップをオープンし、シューマイ、饅頭、餃子などのテイクアウト販売を開始したのです。特に、昭和31年(1956年)に発売を開始した焼き餃子は非常に好評を博し、高まるニーズにお応えするために、築地や原宿などに食品工場を新設するまでになりました。デリカ事業の成長に伴い、レストラン事業もさらに拡大していったのです。
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彦七がデザインしたチラシ
1955年ごろの運搬兼宣伝車
広告・宣伝活動や研究活動に力を注ぐ。
銀座アスターは開業当初から広告・宣伝の重要性に着目し、時には創業者の彦七が自らチラシを考案するほどに力を注いできました。昭和34年(1959年)には彦七の娘である太田喜久子(当時28歳)が宣伝部を担当することになり、車体に「アスターのシューマイ」と大書した食品配達車の導入や、TVCMの展開などに着手。彼女が発案したチャイナ・ドレスのマスコット『アスターちゃん』も大人気を博しました。さらに彼女は、中国料理・中国文化についての研究活動においても新たな可能性を切り拓いていきました。そのひとつが中国視察です。日中国交正常化の8年前にあたる昭和39年(1964年)には彼女自身が中国政府が招待する代表団に同行して中国を訪れ、昭和40年(1965年)には社内の幹部たちを中国に派遣し、翌41年(1966年)には視察団が香港・広東・杭州・上海・北京などの名店を訪れています。そうした活動を通じて、社内のキーパーソンたちが現地の料理を数多く味わい、経験値を高め、現地で得た知見を社員たちに伝えていくという人材育成体制の基礎が築かれていったのです。昭和42年(1967年)、創業者・矢谷彦七が逝去しました。彼の思いを受け継ぎ、銀座アスターは新たな時代を歩んでいくことになりました。
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1973年の新宿賓館エントランス
新時代の企業理念『CCIVSS』の誕生。
かつての中国料理店というのは、アラカルトの料理を中心にお出しするこぢんまりとしたお店がほとんど。その中で、銀座アスターは昭和42年(1967年)には宴会場を備えたディナーレストラン『ホテル阪神店』を、翌43年(1968年)には、広さ165坪で100人規模の宴会ができる『日本橋賓館』をオープンさせ、業界内外の耳目を集めたのです。昭和46年(1971年)に太田芳雄が社長に就任すると、300坪前後の賓館化路線がさらに推進されていきます。昭和48年(1973年)には、様々な出来事が起こりますが、中でも大きなトピックスとして挙げられるのが、新たな企業理念『CCIVSS(チャイニーズ・クッキング・インフォメーション・バリュー・サービス・システム)』を打ち出したこと、香港大同酒楼で満漢全席を催したこと、2フロア合わせて450坪という大規模店『新宿賓館』をオープンしたことです。『CCIVSS』は、中国料理の価値(料理、酒、茶、美術、工芸、社交、マナーなど)を総合的に提供することを目指した経営方針で、満漢全席の開催も、新宿賓館のオープンも、その第一歩と言えるものでした。
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陳麻婆豆腐
中国の厨師以上に、中国を学べ。
太田は、社長就任直後から「中国の厨師以上に中国を勉強しなくてはいけない。中国人以上に中国の歴史と文化を学べ。そうしてはじめて彼らと一緒のところに立てる」と提唱し続けていました。その成果のひとつが、銀座アスターの人気メニュー『陳麻婆豆腐』です。1970年代、銀座アスターの社員一行は、麻婆豆腐の故郷として知られる四川省・成都に初めて赴きました。案内人からは「陳麻婆豆腐店という元祖はあるが外国人を案内することはできない」とすげなく断られてしまいましたが、一行は諦めることなく、粘り強く交渉を重ねた結果、数日後にようやく訪問と試食を実現することができたのです。その麻婆豆腐は、それまでに経験した、どんな皿とも違う味でした。それから2年後、本家・陳麻婆豆腐は銀座アスターのメニューに登場し、現在では名物レシピとして人気を博しています。銀座アスターの料理一つひとつが、この陳麻婆豆腐と同じように、中国の原点を尋ねながら練り上げられています。
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初期の名菜席(新宿賓館)
『名菜席』が評判を呼び、『賓館』が続々と誕生。
昭和52年(1977年)、新宿賓館で『名菜席』がスタートしました。これは、日本では中々味わうことができない本場の多彩な中国料理をお客様に楽しんでもらうために始まったものでしたが、同時に、通常の営業ではめったに注文のない料理を調理師たちがつくる機会や切磋琢磨しながら、腕を磨く機会を与えるためのものでもありました。当初は研修の延長としての意味合いも濃かったのですが、当時はまだ中国の宴会料理を出す店が少なかったこともあり、予想以上の好評を持ってお客様に受け入れられることになりました。この機会をとらえ、銀座アスターは本格的な宴会料理を提供できる大型店舗を次々に開発。53年~56年にかけて『大宮賓館』『津田沼賓館』『難波賓館』『川崎賓館』『三軒茶屋賓館』『お茶の水賓館』が続々とオープンしていきました。以来、名菜席は銀座アスターの代名詞のひとつとなったのです。
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平成4年新装オープンの本店
平成16年にリニューアルした本店
『食のグローバル化』を担う食文化企業として。
長年にわたり中国各地に出向き、食の研鑽を続けてきた銀座アスター。そのひとつの集大成として開発されたのが、創業の地・銀座一丁目に平成4年(1992年) に新装オープンした『銀座本店』です。同店舗は、銀座アスターが蓄積してきた「オールチャイニーズ」を発信していく旗艦店とも言える存在です。平成8年(1996年)には従来から20年にわたり交流を続けてきた広州酒家と正式に友好店の関係を結び、同広州酒家のスタッフたちとともに料理を披露する名菜席などが開催されるようになり、平成20年(2008年)には北京の世界中国料理連合会から『国際中餐名店』に認定されました。銀座アスターは、今や世界の食が出会う場へと成長を遂げようとしています。変わらない伝統と変わり続けるトレンド――そのどちらをも尊重しながら、今後も食文化企業としての在り方を追求し、「食のグローバル化」を担い続けていきます。